あさま(浅間)山荘事件とカップヌードルの関係は⁉事件もわかりやすく解説!

暮らしの知恵
私が住んでる長野県には浅間山があります。
浅間山と聞いて「火山」を思いうかべる人よりは
あさま山荘事件
を思い出す人の方が多いのではないでしょうか?
私の父は大工さんでした。
棟梁だったのに事件が起こると野次馬として浅間山へ…。
事件中は仕事をしないで事件現場に滞在していました(苦笑)
この時はみんな野次馬に行っていたようですよ。
当時建築中の住宅もストップ。
施主も泣きますね。
そんな世間を騒然とさせた
「あさま山荘事件」と「カップヌードル」
この関係をご存じでしょうか。
今回はあさま山荘事件とカップヌードルとの関係を調べてみました。
更にあさま山荘事件を小学生にも分かるよう解説します。

あさま(浅間)山荘事件とカップヌードルの関係とは⁉

あさま山荘事件をリアルタイムに観ていた人は覚えてる!?
中継のテレビに写るカップヌードルを…。

引用:Wikipedia

あさま(浅間)山荘事件生中継がカップヌードルのCM!?

あさま山荘事件がカップヌードルを「カップめんシェア№1」に押し上げた‼
と言っても過言ではないのです。

NHKと民放を合わせた総世帯の最高視聴率はなんと【89.7%】
ほぼすべての国民がテレビにくぎ付け。

この事件で機動隊員が食べていたのがカップヌードル。
寒い軽井沢、立ったまま暖かいカップ麺をフォークで食べる姿。
当時は立ったまま食事をとるなんて絶対ダメな時代だったのに…。

テレビを観ていた庶民にとって事件はもちろん興味津々。
その中で機動隊員が食べるカップ麺にもっと興味津々。

事件の生中継がCM代わりとなって、事件後大ブレイクしたのです。
宣伝効果は絶大だったようですね‼

あさま山荘事件で機動隊員が「カップヌードル」を食事にしたのは何で?
あの事件があったからカップヌードルって流行ったの!?

そうなの‼
テレビ中継の機動隊員たちがカップヌードルを食べている姿が、格好のCMになったのよ。

あさま山荘事件の後
しばらくの間は「カップヌードルがトレンド」となったわね。
若者が「俺ってナウい(死語)だろ?」と言わんばかりに
当時流行った「歩行者天国」などで、わざわざ歩きながらカップヌードルを食べる事がかっこいいとされていたの。

日清のカップヌードル
実は市場調査を兼ねて24時間勤務の「消防隊員」や「警察関係者」で試験的に販売され始めたものなの。

事件当時も警視庁が警備部の食料として購入保管していたのね。

 

あさま山荘警備中、地元の仕出し屋にお弁当を注文して現場へ配っていたんだけど真冬の軽井沢では直ぐに凍ってしまい、前線部隊の食事問題が発生したの。
そこで、札幌五輪で使ったキッチンカーの出動を要求。
でも間に合わなかったので保管していた「カップヌードル」を急遽軽井沢の警備現場へ送ったみたいなの。
現場でお湯を沸かせば簡単に暖かい食事が出来るとして、山荘周辺に展開している機動隊員に配られたのよ。

引用:Yahoo!知恵袋

あさま(浅間)山荘事件で大ブレイク‼カップヌードル誕生秘話

1958年(昭和33年)
チキンラーメンを作り出した日清食品創業者の安藤百福氏が作った世界発のカップ麺

当時、チキンラーメンをアメリカで普及させるために渡米した安藤百福氏。
売り込み先のスーパー担当者にチキンラーメンを渡したところ…。

細かく割ってカップに入れて、お湯を注いだ。
箸ではなくフォークで、スナック感覚で手軽に食べた‼

丼も箸も使わない
これを見て思いついたのです‼

更に、帰りに飛行機内で「ナッツの紙容器」でひらめきます。
密封するアルミ蓋
カップ麺のスタイルを作り出したのです。

カップヌードル発売‼

容器など試行錯誤を繰り返し、1971年(昭和 46年) 9月18日
新宿の伊勢丹百貨店を皮切りに発売開始されたのです。

世界発の「カップ麺」誕生‼
でしたが、発売当時は全く売れなかったようですね。

それもそのはず。
当時、袋麺が1食【25円】という時代に、1食【100円】と高価たっだこと。

更に「得体の知れない食べ物」だった事が原因だったのですね。
昔親から言われませんでしたか「カップ麺は食べちゃだめ」って…。

でも私は今も昔も大好き♡
子供達も好んで食べてますよ♡♡

あさま(浅間)山荘事件をわかりやすく説明

1972年2月19日~28日に起きた、警察歴史上最長期間の人質立てこもり事件。
長野県の軽井沢町にある河合楽器製作所の保養所で起きたのです。

あさま(浅間)山荘事件をわかりやすく解説

この事件、身代金などの何か明確な「目的」があって起こった事件ではありません。
行き場を無くした連合赤軍のメンバーが追い詰められて起こした事件なのです。

その証拠に人質をとっているにも関わらず、連合赤軍は何も要求してこなかったのです。

連合赤軍は「こんな日本じゃダメだ!」
と、日本に革命を起こすために集まった若者集団。
共産主義者同盟赤軍派」と「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」の軍隊が連合した集団なのです。

当然こういった集団はマークされ、警察から追われるようになっていくのです。

最初は山中に隠れながら数十人で集団生活をしていました。
その際「統括」と呼ばれる凄惨な事件を起こしています。

警察の山狩りから逃れる為
坂口弘(25歳)
坂東国男(25歳)
吉野雅邦(まさくに、23歳)
加藤倫教(みちのり、19歳)
加藤元久(16歳)
この5人(加藤は兄弟)が山中を逃げ回りたどり着いたのが「あさま山荘」だったのです。

1972年2月19日~2月28日の10日間
あさま山荘管理人の奥様を人質に立てこもります。
日本の警察歴史において、最長時間(219時間)を記録している事件なんです。

事件最中、人質になっている管理人の身代わりを名乗り出た民間人(新潟県民)を射殺。
その後、機動隊員も2名射殺。
それ以外に、27名もの重軽傷者を出してしまいます。

何日もかけて警察や身内(親兄弟)が説得しても投降せず
2月28日、警察が最終の投稿勧告をします。
でも、連合赤軍が応じなかったため機動隊が突入作戦開始!

機動隊との銃撃戦が行われ、放水や催涙ガス弾が撃ち込まれます。
有名なシーン「鉄球」を建物にぶつけ破壊します。

最後はバリケードが破られ機動隊が突入。
連合赤軍は5人全員逮捕され、人質の奥様は無事に解放されたのです。

引用:YouTube、Wikipedia

あさま(浅間)山荘事件経過

死者3名機動隊員2名、民間人1名】
重軽傷者27名機動隊員26名、報道関係者1名】

延べ10日間に渡り警察や機動隊が応戦。
最後には人質も無事救出されて、犯人5名は全員逮捕されたのです。

2月19日 軽井沢レイクニュータウンの「さつき荘」に入り食料を盗んだり休憩目的で滞在した。
捜索中の機動隊に発見され、銃を乱射しながら逃走用の自動車を探していたところ、あさま山荘にたどり着く。
2月20日 「ここで徹底抗戦する。1日でも長く銃撃戦を闘う、警察官に降伏しない、1日でも長く抗戦を続けることに意義がある」と決意。
あさま山荘には20日間程度のの食料もあったので徹底抗戦。
2月21日 この日、説得後連合赤軍は「人質の奥様への激励の手紙や差し入れを受け入れる」とした。
第九機動隊隊長の大久保伊勢男警視が丸腰で山荘の玄関前に果物籠を置いたのだが盗聴を疑い籠はそのまま放置されてしまう。
2月22日 吉野雅邦の母親が説得を試みる。
説得で苛立った吉野は、自分の母親が乗る装甲車にまで発砲する。
前日に置いた果物籠を持ち山荘の玄関先に近づこうとした民間人に発砲、その後死亡。
一人目の犠牲者がでた。
2月23・24日 警察隊は玄関前に3台の特殊警備車両を配置して偵察を開始。
24日の1時には、犯人らを眠らせないための擬音作戦も開始。
お昼には山荘への放水も始まり、玄関のバリケードも水圧で破壊。
それに対し連合赤軍は散弾銃で応戦した。
2月25・26日 深夜からの擬音作戦に連合赤軍は不眠となる。
26日には濃霧(深いきり)が発生、吉野雅邦が脱走を提案するも断念。
「警官を人質にとろう!」
「突入してきた機動隊を爆破しよう!」
など計画を立てるがこれも断念。
2月27日 「連合赤軍事件に関する取材・報道協定」が結ばれラジオからの報道が一切消える。
情報が入って来なくなった連合赤軍は「明日何かがある」と予測する。
2月28日 早朝5時、投石開始。
9時55分、最後通告。
10時、機動隊突入。
10時7分、連合赤軍が発砲、銃撃戦開始。
11時27分、放水指揮官が死亡、二人目の犠牲者となる。
11時54分、坂東国男の狙撃によって三人目の犠牲者がでる。
12時30分、警察の作成が一旦休止。
12時45分、報道陣に対して発砲。
14時40分、厨房にいた機動隊と衝突。
15時30分、放水が再開、催涙ガスを打ち込む。
17時、機動隊が接近、バリケードを排除し始める。
18時10分、連合赤軍全員確保、人質が無事解放される。
その後、逮捕を見届けた坂東国男の父親が自殺してしまう。

引用:Wikipedia

あさま(浅間)山荘事件とカップヌードルの関係は⁉事件もわかりやすく解説!まとめ

あさま山荘事件とカップヌードル。
長野県民だけでなく全国民がテレビにくぎ付けになり、ブラウン管越しにカップヌードルを観ていたのですね。

あまり喜ばしくない宣伝効果ですが(苦笑)
あの事件がカップヌードルを【世界№1】に押し上げたのは間違いなさそうです。

私たちが当たり前のように食べている「カップヌードル」
こんなストーリーがあったとは思いもしませんでした。

事件当時、私はまだ生まれていませんでしたが事件の名前だけは知っていました。
それほど大きな出来事で、日本人の心に深く刻まれた事件だったのですね。

現在…。
人質になった奥様とご主人はご健在。
でも、事件については取材を一切受けない様です。
きっと心に傷が残っているのでしょう。

建物は当時のまま残り
近くにはお地蔵様も祀られ
治安の碑も建てられているようです。

こんな悲しい事件が二度と起きない
カップヌードルを楽しめる世の中であってほしいと思う今日この頃です。


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